「その件は、田中さんじゃないとわからないんですよ」
社内でこの言葉を聞いて、少しヒヤッとしたことはないでしょうか。請求まわりの処理も、あの取引先との細かいやり取りも、機械のクセを踏まえた設定も、気づけば特定の一人しか把握していない。本人が元気に出社している間は、何の問題も起きません。むしろ「よくやってくれている」と頼もしく感じるくらいです。
ところが、その人が急に体調を崩したり、家庭の事情で退職を申し出たりした瞬間、会社は一気に止まります。引き継ぎ資料はどこにもなく、社長自身が過去のメールを掘り返す羽目になる。中小企業では、たった一人の不在が経営を揺るがすことがあるのです。
今回は「あの人しかできない仕事」――いわゆる業務の属人化について、なぜそれが起きるのか、そして人も予算も限られた会社が今日から何をすればいいのかを整理してみます。
中小企業の属人化とは?「あの人しかできない仕事」が生まれる理由
属人化とは、ある業務の進め方やノウハウが特定の個人の中だけにあり、他の人には中身が見えなくなっている状態のことです。「ブラックボックス化」とも呼ばれます。
ここで最初に押さえておきたいのは、属人化は誰かの怠慢やわがままで起きるわけではない、ということです。むしろ中小企業では、放っておけば自然に発生します。理由は単純で、少人数の会社では一人が複数の役割を兼務するからです。経理も総務も、ときには採用まで一人で回している。目の前の仕事を片づけるだけで手一杯で、「自分のやり方を人に説明する」時間などどこにもありません。
しかも本人にとっては、自分のやり方を毎回言葉にするより、黙って処理してしまうほうが圧倒的に速い。短期的には、属人化はむしろ効率的なのです。だからこそ誰も止めず、三年、五年と経つうちに、その人の頭の中にしかない手順が積み上がっていきます。
こうした「言葉になっていない知識」を、専門的には暗黙知と呼びます。本人も無意識に使っているコツやカンのことです。厄介なのは、暗黙知は本人が辞めると同時に、まるごと会社の外へ出て行ってしまう点にあります。設備も在庫も残りますが、頭の中身は残りません。
属人化のリスクとは?退職・休職で事業が止まる中小企業の実態
では、実際にどれくらいの会社がこの問題を抱えているのでしょうか。
株式会社kubellパートナーが2026年5月に発表した調査(従業員300名未満の中小企業でバックオフィス業務に携わる担当者・管理職・経営層86名を対象)では、55.8%が「属人化による業務のブラックボックス化」を業務継続の課題に挙げ、最多となりました。次いで「担当者の退職・休職に伴う業務継続のリスク」が47.7%です。
さらに深刻なのはその先です。担当者が突然退職・休職した場合の影響について、82.6%が「何らかの影響がある」と回答。そのうち44.2%は「事業継続に重大な支障が出る可能性がある」または「大きな混乱が生じる可能性がある」と答えています。半数近くの会社が、一人抜けたら経営が揺らぐ状態にあるということです。
また、生産性を下げている根本原因としては「ナレッジの共有不足(マニュアル不在による属人的な指導・確認)」が48.8%で最多でした。
背景には人手不足があります。帝国データバンクの調査では、2026年4月時点で正社員が不足していると感じる企業は50.6%。四月としては四年連続で半数を超えました。人が足りないから一人に仕事が集中し、集中するから引き継ぎができず、引き継げないから辞められると困る。この悪循環が、多くの中小企業で静かに進行しています。
そして、しわ寄せは本人にも及びます。「自分がいないと回らない」状態は、休みを取りづらく、体調を崩しても出社してしまう原因になります。属人化は業務リスクであると同時に、優秀な社員を疲弊させ、離職に近づける要因でもあるのです。
なぜ社員はノウハウを共有したがらないのか?属人化を生む3つの心理
「マニュアルを作ってくれ」と何度言っても進まない。多くの社長が経験することです。これは本人のやる気の問題というより、人の脳のクセが関係しています。代表的なものを三つ紹介します。
一つ目は、心理学で「知識の呪い」と呼ばれる現象です。何かに詳しくなった人は、自分が知らなかった頃の感覚を思い出せなくなる、という脳のクセのことです。ベテランにとっては当たり前すぎる手順は、もはや意識にすら上りません。だから本人は正直に「特に説明することはない」と感じています。悪気なく手順が抜け落ちるのは、これが理由です。
二つ目は、心理的所有感と呼ばれるものです。人は長く関わったものを「自分のもの」と感じる性質があります。担当業務も例外ではなく、口出しされると縄張りに踏み込まれたように感じてしまう。「あなたの仕事のやり方を教えてほしい」という依頼が、「あなたのやり方を否定したい」と受け取られることがあるのは、このためです。
三つめは、目の前の負担を大きく見積もり、先の利益を小さく見積もる脳の傾向です。マニュアル作成は今すぐ二時間を奪いますが、その効果が出るのは半年後かもしれません。脳は「今の2時間」のほうを重く感じるので、いつまでも後回しになります。
つまり、属人化が解消しないのは人格の問題ではなく、設計の問題です。だとすれば、この三つのクセを前提にした進め方をすればいい、ということになります。
属人化を解消する方法①:業務の棚卸しで「見える化」から始める
最初にやるべきは、マニュアル作成ではありません。「誰が何を抱えているか」を一枚の紙に書き出すことです。
やり方は簡単で、費用もかかりません。A4の紙を横にして、左端に業務名、次に担当者名、そして「その人が明日から一か月来られなくなったら困る度合い」を三段階(◎・○・△)で書くだけです。社長が一人で三十分ほど手を動かせば、たいていの会社は骨組みができます。可能なら各社員にも同じ紙を書いてもらうと、社長が把握していなかった業務が必ず出てきます。
ここで大事なのは、全部を一度に潰そうとしないことです。◎がついた業務、つまり「その人が抜けたら本当に困る仕事」だけを上から三つ選びます。中小企業の限られた時間で成果を出すには、対象を絞ることが何より重要です。
この作業には、もうひとつ効果があります。社員自身が「自分の仕事は会社にとってこれだけ重い」と客観的に認識できることです。先ほどの心理的所有感の話でいえば、自分の領域を否定されるのではなく、価値を認められたと感じられる。共有への抵抗感が下がる入口になります。
属人化を解消する方法②:完璧なマニュアルより「30点メモ」でいい
次が実際の共有です。ここでつまずく会社の多くは、最初から立派な手順書を作ろうとして挫折します。
おすすめは、完成度30点で構わないと社長が明言してしまうことです。体裁も統一しなくていい。箇条書きで十行、途中で終わっていても構わない。まずは「頭の中にあることを外に出す」ことだけを目的にします。
具体的なやり方としては、次のどれかを試してみてください。ひとつは、その業務をやっている最中にスマートフォンで画面や手元を録画し、口で説明しながら三分だけ撮る方法です。文章を書くより心理的なハードルがずっと低く、暗黙知が拾いやすい。もうひとつは、社長や別の社員が「聞き役」になって、本人に作業を実況してもらい、聞いた側がメモを取る方法です。
この「聞き役方式」には理由があります。先ほどの知識の呪いのせいで、本人は自分の説明の穴に気づけません。何も知らない人が横から「そこ、なんで先にこっちを確認するんですか?」と素朴に尋ねることで、初めて言葉になる部分が出てくるのです。教える側と教わる側を組ませるだけで、精度は大きく上がります。
そして、置き場所を一か所に決めてください。共有フォルダでも無料のチャットツールでも構いません。探す手間が三十秒を超えると、人は見に行かなくなります。
属人化を解消する方法③:共有した人が報われる評価と声かけのポイント
三つめは、社長の声かけと評価です。ここが抜けると、①と②は一度きりで終わります。
多くの職場では、無意識のうちに「一人で抱え込んでいる人」が評価されています。忙しそうに見え、頼られ、なくてはならない存在に映るからです。一方、手順を共有して誰でもできる状態にした人は、仕事が減ったように見え、目立たなくなる。これでは、共有するほど損をする構造です。
そこで社長がすべきことは、まず言葉にして認めることです。「手順を残してくれたおかげで、先週あなたが休んでも現場が止まらなかった。助かった」。この一言があるかないかで、次の行動が変わります。人の脳は、直後に良い反応が返ってきた行動を繰り返しやすいという性質を持っています。褒めるタイミングは、正確さよりも早さが大事です。
さらに一歩進めるなら、評価項目に「自分の仕事を他の人ができる状態にしたか」を一行加えてしまいましょう。人事制度をゼロから作り直す必要はありません。既存の評価シートに一項目足すだけで、会社が何を大事にしているかは十分に伝わります。
もうひとつ有効なのが、意図的な「半日交代」です。月に一度、半日だけ担当を入れ替えてみる。手順書に書かれていない抜けが必ず見つかる、コストゼロの点検方法です。
社長自身の属人化に気づいていますか?経営者が抱え込む仕事の手放し方
最後に、いちばん見落とされやすい点に触れておきます。中小企業でもっとも属人化しているのは、たいてい社長自身の仕事です。
金融機関との交渉、主要取引先との関係、価格の判断基準、採用の最終判断。これらは社長の頭の中にしかなく、誰も引き継げません。社員には「共有しろ」と言いながら、自分の業務は誰も触れない――そんな状態になっていないでしょうか。
まずは、社長の一日を一週間だけ記録してみてください。手帳に「何に何時間使ったか」を書くだけで十分です。そのうえで、自分でなくてもよい仕事に印をつけます。多くの社長は、ここで四割前後が該当することに気づきます。
いきなり全部を手放す必要はありません。ひとつだけ、社員に完全に任せる仕事を決める。そして口を出さずに三か月見守る。この「三か月」が肝心で、途中で引き取ってしまうと、任された側は二度と手を挙げなくなります。
社長が自分の仕事を手放して見せることは、社内へのもっとも強いメッセージにもなります。人は言葉より行動を見ているからです。
まとめ:一人に頼らない会社が、社員も安心して働ける会社になる
属人化は、悪意ではなく善意と忙しさから生まれます。目の前の仕事を全力でこなしてきた結果として、気づいたらそうなっていた。だからこそ、責めても直りません。仕組みでしか変えられないのです。
そして、その第一歩に予算はいりません。紙一枚に業務と担当者を書き出す。困る度合いに印をつける。上位三つだけ、三分の録画を撮ってもらう。ここまでなら、今週中に着手できるはずです。
「あの人が辞めたらどうしよう」という不安を抱えたまま経営を続けるのは、社長にとっても大きなストレスです。逆に、誰が休んでも会社が回る状態は、社員が安心して休める職場でもあります。それは結局、人が定着する会社の姿そのものです。
御社でいま、「その人しかできない仕事」は何でしょうか。まずは一つ、思い浮かべるところから始めてみてください。